企業のセキュリティ対策は、これまで「社内は安全」「外部からの侵入を防ぐ」という前提のもとで設計されてきました。しかし、クラウドサービスの活用やリモートワークの普及により、その境界線は急速に曖昧になっています。今や、従業員が自宅や外出先、さらには海外から業務システムにアクセスすることも珍しくありません。その結果、「社内ネットワークだけを守る」従来の仕組みでは、情報漏えいや不正アクセスのリスクを防ぎきれなくなっています。
こうした状況の中で注目を集めているのが、「ゼロトラスト(Zero Trust)」という新しいセキュリティの考え方です。これは、「何も信頼しない」という前提のもと、すべてのアクセスを常に検証する仕組みを指します。つまり、「安全であることを前提にする」のではなく、「安全かどうかを都度確認する」ことでリスクを最小化する考え方です。
本記事では、このゼロトラストの基本理念と導入の進め方を、**情報システム部門(情シス)**の視点から整理して解説します。単なる理論ではなく、実際の現場でどのように進めるべきか、段階的なアプローチを中心にわかりやすく紹介していきます。
ゼロトラストとは何か?基本の考え方を理解しよう
ゼロトラストは、「何も信頼しない」という前提に立ち、すべてのアクセスを検証する考え方です。従来の境界防御型セキュリティと異なり、社内外を問わず常に確認を行うことで、安全性を高めます。このセクションでは、ゼロトラストが生まれた背景と、今なぜ必要とされているのかを整理しながら、その基本理念を理解していきましょう。
従来の境界防御が限界を迎えた理由
これまで多くの企業が採用してきたセキュリティ対策は、「社内ネットワークは安全」「外部からの侵入を防げば守れる」という前提に立つ境界防御型モデルでした。しかし、クラウドサービスの利用やリモートワークの普及によって、この仕組みは根本的に通用しなくなりつつあります。従業員が自宅や外出先、時には個人の端末から業務システムへアクセスするようになり、もはや「社内=安全」という線引き自体が意味を持たなくなっているのです。
さらに、サプライチェーン攻撃や内部不正といった“内側からの脅威”も増えています。悪意ある社員や委託先による情報持ち出し、クラウド設定ミスなど、従来の防御網では想定していなかったリスクが現実になっています。こうした状況を踏まえると、ネットワークの外側だけを守る従来型セキュリティでは不十分です。環境の変化に合わせて「誰が、どこから、何にアクセスするのか」を常に把握し、検証する新しい仕組みが求められています。その答えとして登場したのが「ゼロトラスト」という概念なのです。
「信頼しない」という新しい前提と考え方
ゼロトラストの基本理念は、「誰も何も最初から信頼しない」という一点にあります。これは人間関係の話ではなく、すべてのアクセスや通信を常に検証し、正当性を確認するという技術的な考え方です。ユーザーが社内からアクセスしていても、認証が通ったとしても、その行動が安全であるとは限りません。そこで、ゼロトラストではアクセスのたびにユーザー・デバイス・アプリケーションの状態を確認し、異常があれば即座に制御を行います。
重要なのは「一度認証したから安全」という発想を捨てることです。アクセス先や操作内容ごとにリスクを動的に判定し、必要に応じて追加認証を求めることで、攻撃の侵入や情報漏えいを未然に防ぎます。これにより、たとえ内部に侵入されたとしても被害を最小限に抑えることができます。ゼロトラストの本質は、誰も疑うためではなく、常に確認し続けることで安全を保つという前向きな考え方にあります。信頼は「前提」ではなく、「検証の積み重ねによって成立するもの」へと変化しているのです。
ゼロトラストがもたらす企業のメリット
ゼロトラストを導入することで、企業は単にセキュリティを強化するだけでなく、働き方の自由度や業務効率も向上させることができます。従来のように社内ネットワークに依存せず、社員がどの端末・どの場所からでも安全に業務を行える環境を実現できるからです。これにより、リモートワークや海外拠点との連携がしやすくなり、柔軟な働き方が促進されます。
また、アクセスを逐次検証することで、異常な操作や不正アクセスを早期に検知できる点も大きな利点です。これにより、情報漏えいやシステム侵害のリスクを大幅に低減できます。さらに、アクセスログの収集・分析を通じて可視化が進むことで、監査対応やコンプライアンス強化にも役立ちます。結果として、企業は「守るだけのセキュリティ」から「安全を前提に成長できる仕組み」へと進化できるのです。ゼロトラストは防御の枠を超え、企業の信頼性と競争力を支える新たな戦略的基盤となりつつあります。
情シスが整理しておくべき3つの重要ポイント
ゼロトラストを導入する前に、まず押さえておきたいのが「何をどう管理するか」という整理です。セキュリティの中心は、ユーザー・デバイス・データの3つにあります。この章では、情報システム部門が優先的に取り組むべき基本項目を3つの視点から解説し、実践に向けた土台を作るための考え方をまとめます。
ユーザー認証と権限管理の精度を高める
ゼロトラストの根幹にあるのが「正しい人に、正しい範囲でアクセスを許可する」という考え方です。つまり、ユーザー認証と権限管理の精度が低ければ、どんなに高性能なセキュリティツールを導入しても十分な効果を得られません。特に、クラウドサービスやリモート接続が日常化した今、アカウント乗っ取りやなりすましのリスクは年々増加しています。
そのため、パスワードだけに依存したログイン方式から脱却し、多要素認証(MFA)の導入が不可欠です。さらに、ユーザーごとにアクセスできる情報を最小限に制限する「最小権限の原則(Least Privilege)」を適用することも重要です。管理者権限を広く与えると、万一アカウントが侵害された場合の被害が拡大します。
業務内容や部署ごとに権限を細分化し、不要になったアカウントはすぐに削除するなど、日常的な運用管理の徹底が求められます。加えて、シングルサインオン(SSO)を活用することで利便性を保ちながらも、アクセス履歴を統合的に監視できます。ゼロトラストの第一歩は、「誰がアクセスしているか」を正確に把握する仕組みを整えることから始まるのです。
デバイスとネットワークを常に可視化する
ゼロトラストでは、ユーザーだけでなく、アクセスに使われる「デバイス」や「ネットワーク」も信頼しない前提で管理します。特に、社員が私物端末や自宅のWi-Fiを利用するケースが増えた今、どの端末からアクセスされているのかを可視化することは極めて重要です。
デバイス管理ツール(MDM/EMMなど)を活用し、OSのバージョン、ウイルス対策の有無、暗号化の設定状態などを定期的に確認する仕組みを整えましょう。また、ネットワーク面では、社内LANやVPN接続であっても一律に信頼せず、トラフィックを常に監視することが求められます。
不審な通信が検出された場合には、即座に遮断・隔離できるようなポリシー設定が効果的です。さらに、ゼロトラストネットワークアクセス(ZTNA)を導入することで、従来のVPNに代わり、ユーザー単位で安全な通信を実現できます。これらの仕組みにより、「誰が・どの端末で・どんな経路から」アクセスしているのかを可視化し、異常を早期に検知できる体制を作ることが、ゼロトラストの実践には欠かせません。
データを守るための仕組みと継続的な監視
ゼロトラストの目的は、最終的に「重要なデータを確実に守る」ことにあります。そのためには、アクセス制御だけでなく、データ自体を安全に扱うための仕組みづくりが必要です。たとえば、重要なファイルや顧客情報にはアクセス権を細かく設定し、暗号化を施すことで、万一情報が漏えいしても内容を読み取れないようにすることが基本です。
また、クラウドストレージや共有フォルダなど、利用頻度の高い領域ではアクセスログを自動収集し、不審な動きを即座に検知できる体制を整えましょう。さらに、ゼロトラスト環境では「継続的な監視」が大きな役割を果たします。SIEM(セキュリティ情報イベント管理)やEDR(エンドポイント検知と対応)などのツールを活用し、ログの相関分析を行うことで、潜在的な脅威を早期に把握できます。
異常が発見された際には自動でアラートを発し、対応プロセスを標準化しておくことも大切です。これらの取り組みを定期的に見直すことで、セキュリティ対策を“静的な仕組み”から“常に進化する仕組み”へと発展させることができます。データを守るということは、単に漏えいを防ぐだけでなく、日々変化する脅威に合わせて守り方を更新し続けることなのです。
導入の進め方
ゼロトラストの導入は、一度にすべてを変えるものではありません。段階を踏みながら、現状に合った方法で進めることが成功のポイントです。ここでは、現状の可視化から優先順位づけ、運用体制の整備まで、情シスが実際に取り組む際のステップをわかりやすく紹介します。
自社の現状を見える化し、課題を整理する
ゼロトラストを導入するときに最初にやるべきことは、ツールの選定でも設定変更でもありません。自社のどこにリスクがあり、どの経路が狙われやすく、どの業務がクラウド依存しているのかを把握することです。これが不十分なまま「ゼロトラストっぽい機能」を入れてしまうと、現場に負担だけが増えてしまい、結局は従来の運用に戻ってしまいます。
まずは現状のネットワーク構成、利用しているSaaSや社内システム、認証方式、端末の管理状況、権限設計などを棚卸しし、どこが境界に依存しているのかを洗い出しましょう。その際、アクセスログやVPNの利用実績を確認しておくと、実際にどこから業務が行われているのかが分かりやすくなります。
また、委託先やグループ会社など、社外のアカウントが社内リソースに入っている場合は、そこもリスクとして明示しておくとよいです。こうして全体像を可視化できると「この部分は多要素認証を優先」「このSaaSだけ先にゼロトラスト化」などの優先順位がつけやすくなります。最初の見える化は、のちに説明資料を作るときにも使えるので、情シスとしては丁寧にやっておきたい工程です。
段階的に取り組む導入ステップを設計する
ゼロトラストは、一気にすべてを切り替えるタイプのプロジェクトではありません。アクセス制御、デバイス管理、認証強化、ログの集約など、複数の仕組みが連携してはじめて効果が出るためです。そこで有効なのが、CISAなどが示している成熟度モデルを参考にしつつ、自社版の導入ステップを作る方法です。
まずは「認証の強化」「重要システムだけをゼロトラスト化」「ネットワークの可視化」といった小さな単位から着手し、効果と運用のしやすさを確認しながら範囲を広げていきます。設計時のポイントは、業務への影響が少ない領域から始めることと、ユーザーにとっての負荷を急に大きくしないことです。
たとえば、いきなり全社でMFAを強制するのではなく、管理者アカウントや外部接続が多い部門から先に適用することで、トラブル時の対応もしやすくなります。また、段階ごとに「このフェーズで何ができるようになったか」を明文化しておくと、経営層にも説明しやすく、次の投資判断につなげやすくなります。段階的に進めることが、結局は全体を早くゴールに近づける最短ルートになります。
運用・教育・改善を継続して定着させる
ゼロトラストを導入して終わりにしてしまうと、数カ月後には運用が形骸化し、アクセス制御が実態に合わなくなってしまいます。新しいSaaSを導入したり、部署が増えたり、委託先が変わったりと、企業のIT環境は常に変化しているからです。そこで重要になるのが、運用と教育、そして定期的な改善サイクルを組み込んでおくことです。
具体的には、アクセスログやアラートを定期的にレビューし、想定外の利用や権限の過剰付与がないかをチェックします。異常が見つかった場合は、ルールを修正し、再発防止のためのワークフローを整備します。同時に、ユーザー側の理解を深める取り組みも欠かせません。
多要素認証や再認証が増えると、どうしても「前より使いにくくなった」という声が上がります。そこで、なぜこの仕組みが必要なのか、どの操作は自分で対処できるのかを社内ポータルや説明会で伝えておくと、トラブルの一次対応が現場で完結しやすくなります。さらに、年に一度はポリシーやルールを見直し、事業や組織の変化に合わせて更新しておくことで、ゼロトラストを“新しい文化”として根付かせることができます。導入よりも、定着と改善が成功を左右するポイントです。
まとめ
「信頼せず、常に検証する」という考え方を組織全体で共有し、継続的に改善していくことこそが、この仕組みの真の目的です。
情シスとしては、まず自社の現状把握とリスクの可視化から着手し、優先度の高い領域から順にゼロトラスト化を進めていくことが重要です。一度にすべてを変えようとせず、段階的に取り組むことで、無理なく定着させることができます。また、導入後も運用・教育・改善を継続し、セキュリティポリシーを常に最新の状態へ更新していく姿勢が求められます。
ゼロトラストの導入は、IT部門だけの課題ではありません。経営層から一般社員までが「自分たちの業務を安全に守るための仕組み」として理解し、協力することで初めて成功します。技術と運用、そして意識の三つをそろえて取り組むことが、これからの企業にとっての“新しいセキュリティ文化”を築く第一歩となるでしょう。











